太陽と金星と(2)
「そうおっしゃらずにマリク様に、この温かい食事を差し入れする事をお許しください」

「規則は規則だ。テメェが同情する気持も分かるが、イシュタール様の命令は絶対だ」

「無理して忠義熱いフリをしないでください。貴方も内心…心を痛めているのでしょう?
貴方の心は辛そうです。食事くらいやりたいと、そう思っていらっしゃる」

暗い世界の中でようやく太陽の光を拝めたような清涼な気持ち。ラーの微笑みは、虚栄、恐れ、
不安を吸い取り、押し込めた良心を呼び起こさせ、罪悪感を増幅させてしまう……そんな力がある。

その姿を見れば、全身が何かで貫かれたような、温かい光に照らされるような気になる。
彼は常に全身に温かい光を浴びているように見える不思議な男だった。
看守もラーに対して、不思議と強気になれない。彼は決してファラオのような威圧的な存在ではない。
大きな力を持っている屈強なる英雄という風でもない。ただ…生まれつきであろうか?
ラーには、人の心を和ませ、笑顔を引きだす柔らかな光というべき力がある。
その微笑みは仁徳溢れる微笑であり、その声は罪を洗い流す慈悲の声でもあった。

何よりラーという人物。魔術師であると同時に精神医学にも携わり、
人々のカウセリングも請け負っている。迷える人間の救い手として慕われている男なのだ。
この看守の一人とて、胸の奥に溜めた罪を密かに懺悔し、心の憂いが晴れた経験もある。
精神的衛生に悪い環境で生きる事を義務付けられている墓守の一族とその縁者にとって
ラーの存在の暖かさは冷え切った地下世界を照らす日輪なのだ。
彼が現れるだけで場の空気が変わるのは錯覚ではあるまい。

「早く行けよ。20分だ。それだけだぞ」
「ありがとうございます。無理をいって申し訳ありません」


「ラー!会いに来てくれたのか。それ、ひょっとして」

「マリク様。お食事をお持ちいたしました。
それにしても、こんな状況だというのに元気そうですね。マリク様ともう一人のマリク様が
お互いを励まし合っていらっしゃる涙ぐましいお声はよく聞こえましたよ。
僕もうれしいです。お二人は力を合わせて生きていかなくては」

”励ましあってってる?オレと主人格様がか?
どこをどうしたらそう聞こえるんだ!オマエ耳が腐ってるんじゃないか?”

「お褒め頂き大変光栄です」
”全然褒めてねぇ!つーか、人の話聞いてねぇだろう!”

「そんな酷い。マリク様の言葉でしたら、一言一句間違えずに
何時何分何秒何曜日にいったかまで、全て覚えていますよ」

”ウソつけぇ!適当で大雑把なくせに”

「……頭の良さがとりえの僕の自尊心を踏みにじること言わないでください。
それに、生きるためには融通をきかせたり、忘却する事もまた必要なものなのです」

「そんな事はどうでもいい。うぅ…お腹空いた。こんな時に限ってコイツは人格交代しないし」
「それは、そうでしょう……」
「ったく!役に立たないっ!!交代制にしようっていっても、アイツはイヤだっていうし」
「おやおや。それはいけませんね。表のマリク様の手で無理やり
もう一人のマリク様を表に出すことは出来ないのですか?」

「駄目だ。心の世界でアイツの首根っこ捕まえようとしても、
アイツ闇と一体化して逃げるから捕まえれないんだ。悔しいぃぃ」

「いけませんねぇ。マリク様はもう一人の自分を制御し、コントロールするコツを身に着けなければ」
(大体、表のマリク様がにっこり笑って、もう一人のボク大好き…とでもいえば、
もう一人のマリク様はイチコロだろうに。苦痛や拷問に悪意に対する耐性は強いが、
安らぎや愛情、平安や裏表のない笑顔に弱いのが、もう一人のマリク様なのだから)

野菜のたっぷり入った温かいスープに、焼きたてのパン、茹でたトウモロコシが
マリクの前に並べられる。食べ物や作った者、母なるナイルの河、日の光、恵みの雨、
作物を育む大地に感謝の祈りを捧げると、マリクは暖かいスープを口に含んだ。

「美味しいですか?」
「うん………とっても美味しい。今まで食べた、どんなご馳走よりおいしい。ありがとう」
「よかった。もう一人のマリク様のお口には合いますかねぇ?」
「合う。美味いぜ。これ…」
目つきと口調が変わった。声もやや低い。いつの間にか、人格交代が起きていたらしい。
マリクの中の闇の人格が肉体の主導権を握り表に出ている。
頬に食べカスが付いていたので、それを取ってやった。二心は食べ物の好き嫌いが微妙に違うので、
何を出すのか迷った。というわけで二心共に好きなものを中心に出したのだが。

このマリクが邪悪などとは思えない。マリク様の心で生まれた別人格が悪人とは邪悪とは
どうしても思えない。理屈の上では理解できても、骨が、血が、肉が、理解を拒絶する。

マリクの心に、別人格が宿ったのはマリクが10歳のころ。マリクはイシュタールの姓を持つ
ファラオに忠誠を誓った父とヒッタイト人の母を持つ混血児だった。
しかも母上はヒッタイトの宗教界の頂点に君臨する女神イシュタルの大巫女である。
エジプトとヒッタイト。敵対する両国は血で血を洗うがごとく血なまぐさい戦争を起こしていた事もあり、
両国の関係はかつてない程の悪化の一途を辿っている。マリクの母は敵国の宗教界の要人。
それがマズかったのだろう。あるとき、マリクはヒッタイト人の間諜【スパイ】の疑いがかけられ
…そして捕えられた。半年後ようやく釈放された時、マリクの体は激しい鞭打ちで痛めつけられ、
身体の肉は削げ落ち、骨と皮となり果てていた。当然歩く事も出来ず、喋ることさえできず、
飲み物を嚥下することさえ困難となっていたのだ。精神的に耐えきれるはずもない、過酷な生活。
口にするのにもおぞましい、いつ終わるともしれない性的虐待。その果てに――――、
マリクは別人格を作り出す症状。解離性同一性障害を起こしてしまった。

新たに生まれた別人格はファラオを恨み、この世界の理に怒り、人の絆の弱さ脆さを嘲笑する…
破壊衝動によってのみ快楽を得れる危険感情を秘めた人格だった。
労りや思いやり。人と人との繋がり、本来ならば生きるために必要なはずの愛情。
だが、そんなものが何の役にも立たない環境の中で生きるために作られた悲しい別人格は、
魔術の師匠であり、また父親でも、兄でもあるラーですら手にかけようとした。
あの時も、闇人格のマリクは持ちうる限りの最大限の悪意を籠めて呪いの言葉を発した。
――まずはテメェからだ。お師匠サマ。くくっ…あははっ……

イシュタール一族に悲劇をもたらす悪魔と見做されて当然の別人格。もう一人のマリク。
だがラーには、主人格のマリクの保護者人格を嫌う事がどうしても出来なかったのだ。
本当に…僕はマリク様が絡むとバカになってしまうなぁ。全く、責任とって下さいよ…。



「ラー。オレや主人格サマは牢屋から出れるのか?この食事は最期の晩餐なんじゃ」
”こんな臭くて暗いところで死ぬなんてボクはゴメンだね。どうせ死ぬならもっと綺麗な所で死にたい”
「ラー。やっぱ…やっぱ、オレが……オレのせいで主人格サマが」
”お、お前のせいじゃない。……きっと、出れるさ。何だ。お前らしくない!
寒い牢屋が益々寒くなる事をいうな!あ―っ気色悪い!!!!”

涙ぐましいなぁ。普段はいがみあっているのに、心のどこかで深く繋がってるのを見せつけてくれる。
表のマリク様も、大分成長した。最初はもう一人の自分を消す気満々だったというのに。
成長したんだなぁ…と思わずにはいられない。僕は素直に感動してしまう。

イシュタールの一族とは、三幻神に選ばれしファラオが現れし時、
ファラオの記憶の一部を預かる”役目”を授かるらしいがハッキリした具体的な事は分からない。
未来を予知せし墓守の一族の予言者のみが、一族の授かる役目の真実を知るのだが、
正直ラーはその男を信じることが出来なかった。どうせロクでもないことに決まってる。
この一族が、ファラオとこの国の人間の正義のための尊い犠牲というやつにされる予感がするのだ。

だいたい、三幻神に選ばれたファラオとは誰を指すのか全く不明なのだ。その謎のファラオのために、
そのファラオが生まれる前から、あらゆる犠牲を払ってきたのがこの一族である。
イシュタール一族は王家の永眠を祈る祭祀であり、外の世界との関りを絶たなければならない一族。
この国の掟はマリクに優しくはなかった。王族はイシュタールの一族から自由を奪い、
手に入るはずだった家族の情愛を奪い、抵抗しようとすれば掟の下に命さえ奪おうとする。
エジプト国の強さとは所詮偽り。神を従える現人神に守られし神の国も一皮むけばハリボテ。
儚い蜃気楼のようなもの。神器千年アイテムに守られた名ばかりの聖王国は本質は弱く脆いために、
犠牲というものを必要不可欠とする。葛藤や罪悪感はあったかもしれないが、所詮、結果が全てだ。

「もう一人のマリク様。主人格のマリク様のおっしゃる通りですよ。大丈夫です。
イシュタール様は僕が説得しましたから、直ぐ出れますよ。
だから、そんなにご自分を責めないでください。貴方は病んだ魔物でも邪悪でもありません。
基本人格のマリク様を本当の意味で守れるのは、保護者人格である貴方だけなのですから、
自信を持ってください。貴方の奔放さは欠点ではありますが、良いところでもあるのですよ?」

そういいながらラーはにっこり微笑んだ。柵の隙間から手を伸ばし、逆立った頭を撫でる。
ラーの目には、マリクが愛しくてたまらないんだ。宝物なんだと、いわんばかりの眼差しに溢れている。
それを見た闇人格のマリクは刃物のように鋭い目つきが緩ませ、コクンと頷いた。

ああ…可愛いなぁ…もう。普段は自分より偉い人間などいやしないと踏ん反り返って
自分が誰より尊い存在だと信じて疑わず、父も、姉も兄弟はおろか
神々の王と崇められる現人神たるファラオも見下して、自分だけの強さを信じて認めている、
究極の自己陶酔型のもう一人のマリク様がここまで素直に。可愛い。可愛過ぎる。
柵さえなければ殴られても構わないから今すぐ抱きしめて頬ずりしたい。
いつまでも子供扱いしてはいけないと分かっているのに、もう一人のマリク様がこうやって
主人格のマリク様に気を使っている場所をみると、ああ…成長したなぁと感慨極まるというか。
世界中の人間にマリク様の成長ぶりを自慢しまくりたいというか、
感動の余り涙が出そうになるというか。

「………へぇ。てめぇは、あの頑固で強情なお父上様を説得したのか?
親子の情愛よりイシュタール家のメンツ、家名、ファラオへの忠誠を優先する男なんかを」

「はい。僭越ながら僕が。確かにイシュタール様は気難しい方ですが、
言葉を尽くせば分かっていただけましたよ。あの方とて人の親なのですから」

説得が不可能ならば、脅迫するまでだ。材料は困らないほど所持しているのだから。
好んで使いたくはないが、僕は歌の魔術ならば地上の誰にも負けぬ自信があるのだ。
それにファラオに魂を売った者に、愛の女神【イシュタール】の名を名乗る資格などない。
遠慮は無用だ。僕にも誰に何と言われようとも、譲れない願いがあるのだから。
柔和な微笑みを絶やさぬラーの紅の瞳に、全てを灰燼と化す紅蓮の焔が宿った。

”ラー。姉さんは?もう王宮?”

「はい。アイシス様は王宮へと向かわれましたよ。本日はアテム王子の戴冠式ですから。
エジプト史上最年少のファラオの誕生ですね。あの方もこれから大変でしょう。
見てきた者の話によれば、アテム王子とは大変勇敢で、正義感溢れ、人望も厚い王子だとか」

”フーン。そういえば、そうだったな。新たなファラオの誕生かぁ。とってもめでたい事だね”
「プッ。アッハッハッハ。主人格サマも白々しいねぇ。笑いすぎてオレの横っ腹が痛てぇ」
”うっさい。黙れ!”
表のマリクはカッとなりながら、もう一人の自分に怒鳴りつけた。
邪悪な闇は事もあろうか、涙を浮かべながら笑っているのだ。忌々しい。腹が立つ。
肉体があればどつきまわしてやるのに。体が二つ欲しい。こいつのと、ボクのと。

心に宿した魔物を具現化する事が可能ならば、心に宿した別人格を具現化する事も可能のハズだ。
いつか必ず、闇人格に肉体を与えてやる。そして……そして……

ファラオの臣下に過ぎない一族の中で許される会話ではないが、
ラーはさして気にする様子もなく闇人格のマリクの唇を人差し指でそっと抑えた。
素直な事は良いことですが、看守に聞こえますよ?と、ギリシャ語で喋りつつ、
続きはギリシャ語で喋る様に促した。看守には、外国語の学問をしている風にしか
見えないだろう素振りをして。

「あ、…主人格のマリク様もアテム王子の戴冠式に出席したいですか?」
”バカ!そんなわけないだろう。何でそんなものにボクが出なきゃならない”
「オレは出席してぇなぁ。そんでアテム王子様の戴冠式をメチャクチャにしてやりてぇ。
偉そうな王子様やお姉上様やお父上様が真っ青になる所みてぇぜ。クククッ…」

「……我が君。それは間違いなく極刑になりますから、お止めなさい。
まだ、やりたいことがあるのでしょう?外の国に行きたいと…いってたでしょう?」

「あ、オレ。フェニキアに行きてぇな。ラーはそこ出身なんだろ?
フェニキアからなら、ギリシャやローマにも簡単に行けるって話だし、
ラーの好きな乳香も手に入るんだろ?」

「ええ。僕は乳香の香りが好きですから、またフェニキアに行きたいです」


ラーは一応フェニキア出身だ。フェニキアとはフェニックス伝説を持つ国でもある。
フェニキア人は海を渡り、メソポタミアの文明、エジプトの文明をローマ、ギリシャに伝えた人々だ。
海の覇者。地中海の王者。海を渡る商人…彼らはそう呼ばれていた。
ラーも少年時代は彼らと共に海を渡った経験がある。船員の医療担当としてだが。


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解離性同一性障害(二重・多重人格)って子供のころの性的虐待で起きやすいんだよ(死)
つーか、大半がそうですし。だからさ、ホラあれだから、ごにょごにょ(言葉に出来ない)
ラーは優しくておっとり型。デュエリストタイプの性格をしてません。


last up 2008.01.08
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